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田峯城@愛知県北設楽郡設楽町 [お城踏査]
田峯城は、愛知県北設楽郡設楽町田峰にあった中世城郭です。
だみねと読みます。

城跡の遠景です。
田峯城は文明2年(1470)、菅沼定信が築城しました。
別名「蛇頭城」といいます。
菅沼氏は作手村菅沼から興ったため菅沼と称しました。
そして奥三河へ勢力を伸ばすために田峯に城を築きました。
戦国時代には菅沼氏は今川氏、松平氏、武田氏の勢力のハザマにあったために去就に悩みましたが、長篠合戦の時には武田氏に属していました。
ところが、長篠合戦で負けた武田勝頼が菅沼定忠が武田勝頼と共に、甲州への帰りに立ち寄ると、留守役の叔父・定直や重臣・今泉道善らの反逆にあい入城できませんでした。
翌年に菅沼定忠は田峯城を急襲して定直はじめ城内にいた老若男女96名を討ち取りました。
特に首謀者の今泉道善に対する恨みは深かったようで、道善は生き埋めにして生きたまま鋸(ノコギリ)引きの刑にしたと言われています。
今も道善を埋めた道善塚が田峯地内に残っています。

田峯城の縄張り図です。
田峯の集落自体は小高い山の上にあります。
城は比高50mほどの山の上にあります。

模擬櫓です。

御殿が建てられています。

書院造りの本格的な建物です。
ふるさと創生資金の1億円を使って建てられたと管理人さんは言っていました。

なかなかの建物です。
田峯城の本丸には御殿があったと思われます。
しかし、建設に先立ち発掘調査は行なわれておらず、本当にこのような御殿があったかは不明です。
せめて発掘調査の上建てて欲しかったです。

御殿の上段の間です。
なんと鉤上段になっています。
上段の間の一部がL字形に飛び出している形式です。
この形式は熊本城本丸御殿の昭君の間と同じです。
同じ形は聚楽第の大広間にあった他、現存するものでは西本願寺白書院や瑞巌寺本堂などにあるだけです。
とても格式の高いものです。

更に驚くことにその奥には上々段の間まであります。
上々段の間は城主よりもさらに上の格式の人が座る場所です。
とても田峯城にあったとは思えない建物です。

上々段の間の付書院と違い棚です。

上々段の間から見た上段の間です。
鉤上段には甲冑が飾ってあります。
本来の使い方ではありません。
鉤上段の間の意味を理解していないみたいです。
この御殿、来る前には適当に造ってあるようにも思っていたのですが、実際に間取りを見てみると匠図にある書院造りの間取りをかなり忠実に再現していることがわかります。
匠図は、聚楽第の大広間をモデルにしたとも言われ、書院造りの教科書とも言える物です。
この御殿の設計をした人は、古建築を踏まえたうえで建てているようです。

次の間から見た上段の間です。
襖は白く障壁画はありません。
欄間も古式な筬欄間となっています。
熊本城本丸御殿と同じです。
ただ残念なことに天井は上段の間も次の間も同じです。
どうせなら上段の間は格天井にして欲しかったです。

廊下です。

上段の間の隣の部屋です。
床の間があり、炉が切ってあります。

裏門です。

厩です。
中は何もありません。

物見櫓から見た景色です。
本当に山深いところです。

空堀と柵です。
だみねと読みます。

城跡の遠景です。
田峯城は文明2年(1470)、菅沼定信が築城しました。
別名「蛇頭城」といいます。
菅沼氏は作手村菅沼から興ったため菅沼と称しました。
そして奥三河へ勢力を伸ばすために田峯に城を築きました。
戦国時代には菅沼氏は今川氏、松平氏、武田氏の勢力のハザマにあったために去就に悩みましたが、長篠合戦の時には武田氏に属していました。
ところが、長篠合戦で負けた武田勝頼が菅沼定忠が武田勝頼と共に、甲州への帰りに立ち寄ると、留守役の叔父・定直や重臣・今泉道善らの反逆にあい入城できませんでした。
翌年に菅沼定忠は田峯城を急襲して定直はじめ城内にいた老若男女96名を討ち取りました。
特に首謀者の今泉道善に対する恨みは深かったようで、道善は生き埋めにして生きたまま鋸(ノコギリ)引きの刑にしたと言われています。
今も道善を埋めた道善塚が田峯地内に残っています。

田峯城の縄張り図です。
田峯の集落自体は小高い山の上にあります。
城は比高50mほどの山の上にあります。

模擬櫓です。

御殿が建てられています。

書院造りの本格的な建物です。
ふるさと創生資金の1億円を使って建てられたと管理人さんは言っていました。

なかなかの建物です。
田峯城の本丸には御殿があったと思われます。
しかし、建設に先立ち発掘調査は行なわれておらず、本当にこのような御殿があったかは不明です。
せめて発掘調査の上建てて欲しかったです。

御殿の上段の間です。
なんと鉤上段になっています。
上段の間の一部がL字形に飛び出している形式です。
この形式は熊本城本丸御殿の昭君の間と同じです。
同じ形は聚楽第の大広間にあった他、現存するものでは西本願寺白書院や瑞巌寺本堂などにあるだけです。
とても格式の高いものです。

更に驚くことにその奥には上々段の間まであります。
上々段の間は城主よりもさらに上の格式の人が座る場所です。
とても田峯城にあったとは思えない建物です。

上々段の間の付書院と違い棚です。

上々段の間から見た上段の間です。
鉤上段には甲冑が飾ってあります。
本来の使い方ではありません。
鉤上段の間の意味を理解していないみたいです。
この御殿、来る前には適当に造ってあるようにも思っていたのですが、実際に間取りを見てみると匠図にある書院造りの間取りをかなり忠実に再現していることがわかります。
匠図は、聚楽第の大広間をモデルにしたとも言われ、書院造りの教科書とも言える物です。
この御殿の設計をした人は、古建築を踏まえたうえで建てているようです。

次の間から見た上段の間です。
襖は白く障壁画はありません。
欄間も古式な筬欄間となっています。
熊本城本丸御殿と同じです。
ただ残念なことに天井は上段の間も次の間も同じです。
どうせなら上段の間は格天井にして欲しかったです。

廊下です。

上段の間の隣の部屋です。
床の間があり、炉が切ってあります。

裏門です。

厩です。
中は何もありません。

物見櫓から見た景色です。
本当に山深いところです。

空堀と柵です。
長篠城@愛知県新城市 [お城踏査]
長篠城は、愛知県新城市鳳来町にありました。
天正3年に織田信長が武田勝頼を破った長篠の戦いの舞台としても有名です。
長篠城の城主は弱冠21歳の奥平信昌です。
わずか500人の城兵で武田軍15,000人の猛攻を防ぎました。

城跡に建つ資料館です。
正式名称は長篠城址史跡保存館です。
長篠城や長篠の戦いの資料が展示されています。

保存館の中です。
長篠の戦いといえば火縄銃です。
これは外せません。

鳥居強右衛門磔刑の図です。
褌一つで磔に架けられて、全身真っ赤のその姿は見るものを圧倒します。
逆さ磔だったという説もあります。
鳥居強右衛門は、城主奥平信昌の命を受けて使者となって武田軍の重囲の中を城を脱出して、岡崎城に行き、徳川家康、織田信長に救援を求めて快諾を得ます。
城に戻る途中に捕らえられて、武田軍から援軍が来ないと叫べば恩賞を与えると言われましたが、援軍が来ると叫んだために磔になりました。
その姿を見て感動した武田軍の武士の落合左平次が旗指物にしたと言われています。

血染めの陣太鼓です。
長篠籠城の時に使われました。
当時の血の跡がついています。

長篠城の絵図です。
豊川と宇連川に囲まれた要害の地であることがわかります。

石碑です。

内堀です。
土造りですが、堀は深く広いです。
折れていて横矢が効く様に工夫されています。

本丸には合戦に参加した武田軍、徳川軍、織田軍の幟旗がはためいていました。
なかなか壮観な景色です。
天正3年に織田信長が武田勝頼を破った長篠の戦いの舞台としても有名です。
長篠城の城主は弱冠21歳の奥平信昌です。
わずか500人の城兵で武田軍15,000人の猛攻を防ぎました。

城跡に建つ資料館です。
正式名称は長篠城址史跡保存館です。
長篠城や長篠の戦いの資料が展示されています。

保存館の中です。
長篠の戦いといえば火縄銃です。
これは外せません。

鳥居強右衛門磔刑の図です。
褌一つで磔に架けられて、全身真っ赤のその姿は見るものを圧倒します。
逆さ磔だったという説もあります。
鳥居強右衛門は、城主奥平信昌の命を受けて使者となって武田軍の重囲の中を城を脱出して、岡崎城に行き、徳川家康、織田信長に救援を求めて快諾を得ます。
城に戻る途中に捕らえられて、武田軍から援軍が来ないと叫べば恩賞を与えると言われましたが、援軍が来ると叫んだために磔になりました。
その姿を見て感動した武田軍の武士の落合左平次が旗指物にしたと言われています。

血染めの陣太鼓です。
長篠籠城の時に使われました。
当時の血の跡がついています。

長篠城の絵図です。
豊川と宇連川に囲まれた要害の地であることがわかります。

石碑です。

内堀です。
土造りですが、堀は深く広いです。
折れていて横矢が効く様に工夫されています。

本丸には合戦に参加した武田軍、徳川軍、織田軍の幟旗がはためいていました。
なかなか壮観な景色です。
瀬木城@愛知県豊川市 [お城踏査]
瀬木城は、愛知県豊川市瀬木町にあった中世城郭です。

豊川市内の中世城郭が破壊されている城が多いのですが、瀬木城はその中ではよく遺構が残っているうちの一つです。
城跡は神明社の境内となっています。
神社の北側に堀と土塁がよく残っています。

堀跡です。
今は水はありませんが、雨季になると水が溜まります。
以前は水堀でした。
巾も広いです。

説明板です。
それによると
瀬木城は明応2年(1492)に牧野成時(古白)が牧野城につぐ居城として、また、上郷(河岸段丘上の古宿牛久保)進出の拠点として築城したものです。
左の古図でみると当時は豊川が城の東側を流れており、牧野城と瀬木城は豊川の本流によって強く結びついていました。
本丸と思われるところは一段高くなっており。現在神明社が祀られています。その周辺には高い土塁、広く深い堀が残っており、牧野城よりも近世的要素をもった掻揚城でした。
成時は間もなく一色城に進出し、牧野城に長男の能成を、瀬木城には二男の成勝を配しました。
その後、城主成勝は一色城に移り、また、豊川の流路も変わったこともあって廃城となりました。
説明によると三河の国人牧野氏の城でした。

浅野文庫諸国古城之図にある瀬木城の絵図です。
現在は本丸部分しか残りませんが、本丸の形や周囲の地形、明治時代の地籍図などからみてもこの図が正しいことがわかります。
特に本丸の北隅の虎口が張り出す様子は現在も遺構を留めています。
また、本丸は2隅に櫓台を設けて、三方に馬出曲輪を配置する形態は非常に軍事的に精練された縄張りで、明応年間の牧野氏の館の縄張りとは思えません。
おそらくは、牧野氏以降に徳川氏によって軍事的に改修されたと思われます。
改修の時期は三河の国が軍事的に緊張が高まった天正13年の小牧長久手合戦の時が最も可能性が高いでしょう。

瀬木城跡です。
堀跡は薮になっています。
これからの季節に行く場合は藪蚊や蛇に注意したいですね。

豊川市内の中世城郭が破壊されている城が多いのですが、瀬木城はその中ではよく遺構が残っているうちの一つです。
城跡は神明社の境内となっています。
神社の北側に堀と土塁がよく残っています。

堀跡です。
今は水はありませんが、雨季になると水が溜まります。
以前は水堀でした。
巾も広いです。

説明板です。
それによると
瀬木城は明応2年(1492)に牧野成時(古白)が牧野城につぐ居城として、また、上郷(河岸段丘上の古宿牛久保)進出の拠点として築城したものです。
左の古図でみると当時は豊川が城の東側を流れており、牧野城と瀬木城は豊川の本流によって強く結びついていました。
本丸と思われるところは一段高くなっており。現在神明社が祀られています。その周辺には高い土塁、広く深い堀が残っており、牧野城よりも近世的要素をもった掻揚城でした。
成時は間もなく一色城に進出し、牧野城に長男の能成を、瀬木城には二男の成勝を配しました。
その後、城主成勝は一色城に移り、また、豊川の流路も変わったこともあって廃城となりました。
説明によると三河の国人牧野氏の城でした。

浅野文庫諸国古城之図にある瀬木城の絵図です。
現在は本丸部分しか残りませんが、本丸の形や周囲の地形、明治時代の地籍図などからみてもこの図が正しいことがわかります。
特に本丸の北隅の虎口が張り出す様子は現在も遺構を留めています。
また、本丸は2隅に櫓台を設けて、三方に馬出曲輪を配置する形態は非常に軍事的に精練された縄張りで、明応年間の牧野氏の館の縄張りとは思えません。
おそらくは、牧野氏以降に徳川氏によって軍事的に改修されたと思われます。
改修の時期は三河の国が軍事的に緊張が高まった天正13年の小牧長久手合戦の時が最も可能性が高いでしょう。

瀬木城跡です。
堀跡は薮になっています。
これからの季節に行く場合は藪蚊や蛇に注意したいですね。
大相撲夏場所・金環日食他 [身辺雑話]
今日で大相撲夏場所もまさかの平幕の旭天鵬の初優勝で幕を閉じました。
昨日まで旭天鵬、栃煌山、稀勢の里が3敗で並び、4敗で白鵬以下3人で、もしかしたら6人による巴戦、もしくは、旭天鵬、栃煌山、稀勢の里が巴戦を期待していたが・・。
そして久しぶりの日本人力士による優勝も願っていたけど、またもモンゴル人の旭天鵬の初優勝でした。
期待の稀勢の里は決定戦にも進めず。
旭天鵬(友綱部屋)も37歳という史上最年長の初優勝おめでとうございました。
結びの一番では白鵬が日馬富士にまさかの送り出しで敗戦。
今日、琴欧州が休場した時点で、白鵬の優勝は消え、初日に骨折した指の影響もあったでしょうが、今日も相撲は白鵬らしくなかった。
日馬富士が7勝7敗で勝ち越しがかかっていただけに、モンゴル同士で人情相撲と疑われても仕方ない感じもしました。
とにかく、白鵬も一人横綱で、骨折にも係わらず千秋楽まで優勝にからみ横綱の責任は何とか果たしたといえるでしょう。
次は名古屋場所です。
熱い土俵を期待しています。
明日はいよいよ世紀の天文ショー「金環日食」ですね。
天気が心配です。
日食メガネは今日はほとんどのお店で売り切れていました。
明日が曇りだったらせっかく買ったのが無駄になってしまいそう。
なんとか晴れて欲しいですね。

写真は岡崎城の天守です。
西からの撮影ですが、樹木が茂って天守がよく見えません。
樹の剪定もしてほしいですね。
昨日まで旭天鵬、栃煌山、稀勢の里が3敗で並び、4敗で白鵬以下3人で、もしかしたら6人による巴戦、もしくは、旭天鵬、栃煌山、稀勢の里が巴戦を期待していたが・・。
そして久しぶりの日本人力士による優勝も願っていたけど、またもモンゴル人の旭天鵬の初優勝でした。
期待の稀勢の里は決定戦にも進めず。
旭天鵬(友綱部屋)も37歳という史上最年長の初優勝おめでとうございました。
結びの一番では白鵬が日馬富士にまさかの送り出しで敗戦。
今日、琴欧州が休場した時点で、白鵬の優勝は消え、初日に骨折した指の影響もあったでしょうが、今日も相撲は白鵬らしくなかった。
日馬富士が7勝7敗で勝ち越しがかかっていただけに、モンゴル同士で人情相撲と疑われても仕方ない感じもしました。
とにかく、白鵬も一人横綱で、骨折にも係わらず千秋楽まで優勝にからみ横綱の責任は何とか果たしたといえるでしょう。
次は名古屋場所です。
熱い土俵を期待しています。
明日はいよいよ世紀の天文ショー「金環日食」ですね。
天気が心配です。
日食メガネは今日はほとんどのお店で売り切れていました。
明日が曇りだったらせっかく買ったのが無駄になってしまいそう。
なんとか晴れて欲しいですね。

写真は岡崎城の天守です。
西からの撮影ですが、樹木が茂って天守がよく見えません。
樹の剪定もしてほしいですね。
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